People Vol.3 家具モデラー 宮本茂紀さん
日本における椅子作りの第一人者として、また日本初の家具モデラーとして、現在も第一線で活躍する宮本茂紀さん。世界中の有名建築家やデザイナーのデザインをカタチにしてきた宮本さんを「椅子の神様」と呼ぶ人もいます。インテリアの世界で、日本だけでなく海外でも多くのデザイナーにリスペクトされる宮本さんにお話をうかがいました。
People
宮本 茂紀(ミヤモト シゲキ)
1937年静岡県生まれ。椅子張り職人として活躍後、66年、東京都品川区に「五反田製作所」を創業。73年に渡欧し、イタリア、ドイツなどのトップメーカーで技術を修得。日本ではほとんど知られていなかった職業である「モデラー」の第一人者として、デザイナーや建築家の意図する作品の試作実現を手掛け、その職域の浸透と確立に力を注いできた。卓越技能章(現代の名工)、黄綬褒章受賞。著書に「世界でいちばん優しい椅子」(光文社)、「椅子づくり百年物語」(OM出版)、他。
イメージやデザインと技術を結びつける
日本初「家具モデラー」
椅子は家具の中でもちょっと特別な存在ではないでしょうか。体が直接触れるものであり、長時間使用しても疲れない快適性も重要、そして毎日目にするものですからやはり飽きのこない美しさも求められます。日本で初めて「家具モデラー」を名乗った宮本さんに、まずはモデラーのお仕事についてうかがいました。
●「家具モデラー」という肩書をいつから名乗られているのでしょうか?
82年に雑誌『BRUTUS』の取材を受けた時に、初めて「家具モデラー」として取り上げてもらいました。その数年前からイタリアに技術研修で行くようになり「家具モデラー」の存在を知りました。それまでの日本の家具業界は、建築家がいて、工場長がいて、職人がいるという仕事の流れで、建築家がひいた図面通りに家具ができればいい、というしくみだった。ところが、イタリアでは現場の職人とは別に、「試作開発窓口」があって、モデラーが建築家とやりとりをして、素材や作り方、デザイン的なことも含めて、議論しながら組み立てていくというシステムだったのです。たまたま読んだコルビジェの本にも、都市計画でも現場の人と議論しながら進めるというようなことが書いてあり、イタリアでモデラーの存在を初めて知って、日本もそうあるべきだろうと思い、帰国してから「俺はモデラーだ」と主張したのです。
主張していたら『BRUTUS』が取り上げてくれました。この後日本はバブルに突入するんですけど、業界全体でもモデラーを育てようという機運が高まり、さまざまな会社がモデラー部門をつくりました。でもバブルがはじけて景気が悪くなるとみんなやめてしまった。そういう流れの中でずっと抵抗しているというのが今のわたしの姿です(笑)。
●「モデラー」は具体的にはどのようなお仕事でしょうか。
イメージやデザインと技術を結びつけるための要となる技術者が「モデラー」です。デザイナーと意見を交換しながらカタチにしていくのがモデラーの仕事です。
デザイナーは自己主張をする人が多いですが、作る側(職人)も美意識や価値観を持っている。主張が強い職人だと自分の美意識も入ってきて、デザイナーと折り合いがつかなくなる。そして、その職人の色がだいたい決まってくるのです。わたしは自分の主張をせずに、デザイナーの意見を尊重しました。その結果、さまざまなデザイナーから声をかけられました。当時、川上元美さん、喜多俊之さん、倉俣史朗さん、梅田正徳さんなどが活躍していた時代でしたが、彼ら全員と等距離で接していたのはわたしくらいだった。他の職人からは、「宮本さんはよくいろいろな連中と付き合えるね」と言われましたが、いろいろなデザイナーと仕事ができたのは面白かったです。
「面白い」が最優先
誰もやらないことにチャレンジ
カッシーナ、B&B、アルフレックスなど国内外トップブランド家具のライセンス生産や、アントニオ・チッテリオ、ザハ・ハディド、藤江和子、隈研吾などの有名デザイナー、建築家の作品を手掛けてきた宮本さん。高い技術と豊富な知識を持ったモデラーとして信頼されているからこそのお仕事だと思いますが、ご苦労などはなかったのでしょうか。
●世界の名だたる建築家、デザイナーとお仕事をされていますが、ご苦労などはありましたか?
苦労というよりは、理解するのが大変だったということはありました。例えば、ザハ・ハディドは椅子の背中が燃えているような、炎のイラストを描いてきて、3Dで作ってくれればわかるんだけど、平面の絵じゃわからない。それは理解するのが大変でした。けれど、いくつか考えられる形を出したら、これにしようと決めてくれた。大変だったけれど、楽しい仕事でした。
●宮本さんが海外のブランドや著名なデザイナーとお仕事をするようになったきっかけを教えてください。
わたしが業界に入ってから 1950年代頃までは、家具はほとんど天然素材で作られていました。ところが60年代になると合成樹脂が圧倒的に増えてきた。大きな過渡期でした。椅子の充填物も天然素材だと熟練するまで2~3年はかかる。ところが、ウレタンフォームだと誰でも均一に作ることができるのです。技術の大きな変化の時代に、わたしは新しい素材にもすぐ手をつけました。面白いと思ったからです。ところが、当時業界全体としては、こんなのはプロのやる仕事ではない、天然素材だけで作るのが本当のプロなんだ、という風潮でした。
イタリアのモダンデザインが台頭してきた時代だったのですが、ウレタンみたいな誰でもできる素人がやるような仕事は宮本にまかせておけ、ということになった。けれど、それが積み重なって、当時日本に上陸してくる海外メーカーの仕事をほとんどわたしが手掛ける、ということになりました。プロはそういう仕事をやらないから、わたしのところに話がくる、そういう時代でした。
モノを作っていく行為のバックボーンには
「社会を癒す」がないとつまらない
それまでとは違うやり方でも「面白いから」と挑戦しつづけ、業界のトップへと昇りつめた宮本さん。80歳を超えた現在も新たな挑戦をしている宮本さんに、今取り組んでいるお仕事についてうかがってみました。
●誰も手を出さないことも「面白いから」やってみる。宮本さんの原動力は好奇心なんでしょうか。
危なげなものを覗きたくなるんだね(笑)。
80歳の誕生日の記念にスカイダイビングに挑戦しました。スカイダイビングの第一人者を紹介してもらったのがきっかけです。スイスの山にスカイダイビングにいいところがあるのでコロナが収束したら一緒に行こうという計画もあります。知らない世界を覗きたくなるんだな。
●tasca4Dブランドとのコラボレーションで、TSUGITE など新しい挑戦もされていますね。
継ぎ手の手法は80年代頃から木でやっていましたが、今回はアクリルを使って制作しました。
https://www.tasca4d.com/product/tsugite/
今はファブリックの魅力を家具の世界で生かしたいと考えています。家具に張っている布を気軽に替えられるようにしたい、物語を持った家具にしたい。量産家具の走りであるトーネットのNo.14という椅子に、インクジェットで印刷した布を被せ、物語を持たせる「着る羽織るプロジェクト」を行っています。まずはグリム童話のブレーメンの音楽隊を作っています。見た人が想像を膨らますようなものを作りたい。ブレーメンの次は宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュを予定しています。椅子だけでなくソファーにも展開したいと考えています。
この「着る羽織るプロジェクト」には三つ柱があって、一つ目が今お話しした「童話」。二つ目が、テキスタイルデザイナーやファッションデザイナーと実験的な作品を作る。例えば和紙を使ったファブリックを使うなどです。三つ目が世界の染め物や織物を使うこと。具体的に進んでいるのは、アフリカの染め物や、ウズベキスタンの織物。ウズベキスタンの大使館を巻き込んで動いています。単に織物を紹介するというだけでなく、社会状況、実際に織っている現場の状況を世界に伝えて、知ってもらう、ということにウズベキスタン大使館も興味を持ってくれています。他にはペルーからも話があります。民族衣装は本当に面白いです。
●伝統的な技術が新しいカタチで現代の生活の中に入ってくるというのは重要ですね。
そうですね。今はみんなデジタルの世界に向かっているから、わたしは違うところを目指したいのです。
●世界中が宮本さんの遊び場になっているようですが、ずっと探求心を失わない秘訣はなんでしょうか。
いつも情緒不安定(笑)。自分で面白いと思うことが社会では認められないことがあるじゃないですか。でも、理解してもらえなくてもまあいいか、と思っている。自分が面白いと思ってやっていることが、最初は理解してもらえなくても、続けていると面白いと思ってくれる人に出会う。面白いね、と褒められると嬉しくてのっちゃうので、また続ける、それが積み重なってきています。
●基本は「面白い」なんですね。
童話のプロジェクトも、最初は自分でも迷いがあったんですが、各界で活躍している人たちに話してみると、「宮本さん、俺もそれ思ったことあるよ」という人に出会う。童話を伝える行為は、特に最近は絵本で伝えるということが社会で通りやすくなっているので、面白いんじゃないの、とおだててくれる人もいる。自分の考えていることがそんなに世の中から外れているわけじゃないな、と思えたので続けています。
●なぜ家具に物語を持たせようと思われたのでしょうか。
家具のカバーリングというアイディアは実はずっと前から考えていたことですが、ファッションデザイナーの羽根久美子さんに童話の話をしたときに、彼女が「白雪姫や人魚姫の絵を通して、物語の続きを考えることが好きだった」と言ったのです。その時、誰にでも 物語で癒されるということがあるんだと思いました。
モノを作っていく行為そのものが「社会を癒す」ということをバックボーンとして持っていないとつまらないと思っています。
自分を規定せず「なんでも屋」でいること
できることをやる、なんでもやる
モノを作る行為の背景には「社会を癒す」ことがないとつまらない、という言葉には、宮本さんのモノづくりの哲学が込められているように感じました。「面白い」を基本にしながらも、その行為が社会を癒すことにつながっていることを意識する、ということは、モノづくりに限らずとても重要なことなのかもしれません。
●さまざまな領域の方と勉強会を開催されているそうですが、いろいろなことに興味を持つ秘訣はなんですか?
「なんでも屋」だということでしょうか。椅子張り職人なのに、車両のことにも関わるという職人は他にいませんでした。最近は大きな照明器具の制作もしました。そもそもわたしは、自分のことを「椅子屋の職人」と断定することはありません。できることをやる、というタイプです。椅子屋だという概念を持っていたら照明器具はできません。自分で自分を「椅子屋だ」と決めてしまうと、動けなくなってしまう。できることをなんでもやっていると、「困った時の宮本」と思われて、いろいろな人がいろいろな案件を持ち込んできます。どんな案件もできることをやります。
徒弟の頃から多少ずれているところがあったけれど、容認してもらえていました。つかみどころがなかったのかもしれないですね(笑)。わたしは他人と意見が違っても抵抗しないんですよ。ひとまず受けておく。周りが白だと言っても自分が赤だと思ったら、別の機会にやってみる。どうしてもやってみたいことは自分で確認します。相手を否定することはほとんどありません。
●否定せず、受け入れるけれど、自分の考えは必ず試してみる、できそうでできないことかもしれません。ありがとうございました。
終始笑いが絶えないインタビューは、こちらがたくさんの元気をもらいました。自分を自分で決めつけず、できることをする、面白いことをする、相手を否定しないでまず受け入れる、でも自分がやってみたいことは必ず確かめる。新しいことや前例のないことも、面白ければやってみる。とらえどころがないようで、実は強い芯を持っている宮本さんの周りには、いつも面白い人や仕事が集まってくるのでしょう。宮本さんがいるところは常にヘルシアプレイスになっているようです。